【よもやま】諦める(あきらめる)
2020年10月19日
「諦める」という意味は、一般的には「とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する。」などの意味ですが、この「諦」という熟語には「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語のみられるように「諦」は「つまびらかにする」「明らかにする」というのが本来の意味です。
「とても見込みがないからあきらめる」仕方ないとあきらめるとなると何となく悔いが残ります。
しかし、道理をわきまえて、自分の願望が達成されない理由が明らかになれば納得することもできるわけです。
君は、竹を割ったような性格だなといわれる人も、実は諦められないのが世の姿です。
「あきらめましたよ、どう諦めた 諦められぬとあきらめた」
仏教では「四諦」という四つの諦めがあります。苦・集・滅・道です。「人生は苦なり」「その苦の原因」「その苦を解脱した世界」「その苦を除く方法」です。生老病死は、生命あるものは避けることのできない真理の道筋です。
万葉の歌人山上憶良の歌に「生まれれば必ず死あり。死をもし欲せんば、生まれざらんには如かじ」
私たちは、この世に生を受けた瞬間から墓場への第一歩を生み出しているのです。
家康の遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
「人生は苦なり」この事を諦観(心眼もってつまびらかに観る)することが宗教の扉を開く第一歩なのです。