圓明院
圓明院について(心安らぐ菩提所)
江戸幕府15代将軍徳川慶喜の最後の孫、井出久美子さん・故安岡力也殿の菩提所
圓明院には徳川慶久四女の井出久美子さん、故安岡力也殿のお墓があります。

■井出久美子さんについて

(https://maidonanews.jp/article/12502956 参照2021年11月1日) 久美子さんは1922(大正11)年9月22日に当時の東京市小石川区にあった徳川家の屋敷で、貴族院議員の公爵・徳川慶久(慶喜の七男)の四女として生まれた。 侯爵家の⾧男と18歳で結婚したが、夫は海軍少尉として出征して戦死。 戦後、医師の井手次郎さん(04年死去、享年87)と再婚し、病院の仕事に従事した。 華族となった徳川家の娘時代の体験や戦中から戦後にかけての人生をつづった自叙伝を十数年かけて完成。 昨年6月13日の出版から18日後の7月1日に95歳で亡くなったが、お別れの会の祭壇には当時の天皇皇后両陛下をはじめ、皇族から贈られた花や供物が置かれた。

略系図

■安岡力也殿について

(https://ja.wikipedia.org/wiki/安岡力也参照2021年11月1日) 安岡力也(やすおかりきや、1947年7月19日- 2012年4月8日)さんは、日本の俳優・ロック歌手・キックボクサー・タレント。 シャープ・ホークスのボーカル。本名:リカルド・ニコ・バレンティーノ(安岡力也は日本国籍名)。 身⾧187cm、体重108kg、血液型はO型。イタリア・ジェノヴァもしくは宮城県仙台市出身。 埼玉県行田市育ち。⾧良グループ所属。 デビュー以来、本名の「安岡力也」名義で活動していたが、「安岡リキヤ」と表記していた時期もある。 2001年、離婚を機に姓のない芸名「力也」に改名したが、2010年からは再び「安岡力也」名義で活動した。 子供は俳優の安岡力斗
樹齢千年カヤの木と黄金に輝く観音様の見守る安住の地。
圓明院は後継者がいなくても整理されることのない永代供養墓地、お骨をお預かりする永代納骨供養を受け付けております。また、隣接する公益事業霊園「上総メモリアルヒル霊園」のご利用ご案内もお受けしております。

梵鐘橦刻

下記定刻に鐘をついております。
  • 午前6時
  • 午前10時
  • 正午
  • 午後3時
  • 午後6時(※婆羅観音ライトアップあり)
当山の歴史についてふれますと、開創は鎌倉時代の初期と伝えられ、この上総国に関東第一と謳われた入定寺という修験道場の末寺の一つに数えられました。時代は下り戦国の世となって、興隆を誇っていた入定寺も北条氏に加担した件より没落を余儀なくされ、当山もその難を逃れることが出来ず一時は無住となりました。再興は江戸享保年間を待つこととなり、船塚山山頂より秋葉権現を勧請し、一千座の護摩を修することで、その威徳を世に広める一役を担ったのであります。そして時代の変遷を経て、平成元年より七ヶ年計画で境内整備が進められ、「自動車祈祷殿」「永代供養墓地」「沙羅観音納骨堂」「総菩提五輪塔」「大梵鐘」など、県内最大級の規模で建立されております。(平成17年屋根改修工事が無魔成満しました。)
樹齢千年かやの大樹

樹齢千年以上とも伝えられるかやの木の大樹は、現在もなお二年に一度たわわに実を付けます。当山ではかやの木の樹齢にあやかり、健康長寿のお守りとして、ご参詣の皆様に授与しております。このかやの大樹は寺伝によりますと、熊野権現より箕輪(千葉県君津市箕輪)の入定寺(関東第一山といわれた平安中期より安土桃山時代の大寺)に詣でた僧侶が懐中していたかやの実がここに根をはり、当山圓明院の開創のきっかけになったと伝えられております。古来より、かやの実は、佛果(仏に供える菓子)として用いられ、また、腹の虫の駆除に重宝されてまいりました。とくに十二指腸虫や、さなだ虫によいとされ、古書にも「およそ虫を殺す薬は苦くて辛いが、かやの実は甘くて虫を殺すを異とする。」とあり、また「毎月はじめ早朝空腹時に数個を食べれば翌日虫は皆死んで出る」と、その効能が記されております。江戸時代より、このかやの実数個をお守り袋に入れ、真言一百万返を唱え、「福種」として参詣の信者に授けております。「福種」のお守りは、家にありては、歳徳神の方角の地中に埋めると一年間の家内安全・厄除招福に、また、懐中すれば、延命長寿に御利益があるといわれております。老木となっても、いま現在でも一年おきに実をつけるかやの古木は、当山円明院の長い歴史をみつめてきたのです。

千葉県内最大級の梵鐘

この圓明院は、鎌倉初期ごろの開創と伝えられ開山等は不詳でございます。寺伝によりますと、鎌倉時代にこの付近に関東第一といわれた入定寺という寺院がありこの末院として建立されたとも伝えられております。この入定寺は修験道を継承する寺院で修験の行人の修行の場として圓明院の裏山(およそ二km後方山頂)の船塚山々頂に秋葉山三尺坊威徳大権現を勧請しておりました。当山はこの三尺坊権現の別当寺院として役割を果たしていたと考えられます。時は下り戦国時代に至ると北条氏と豊臣氏の争いの中で北条氏に加担した入定寺は一夜にして焼き討ちに会い、その当時配下の寺院が二十数ケ院あったと伝えられますが、この期にことごとく廃寺となったと伝えられております。圓明院もこの難には逃れることができず一時期無住の時期を迎えるのです。(一五五五年人定寺焼き討ち)江戸時代に至って、圓明院再興の兆しが見え始め、一六五〇年頃には、再建されたと伝えられております。享保年間(一七一四年)に、舟塚山山頂より秋葉三尺棒権現を勧請し(現在の秋葉神社)一千座の護摩供法要を勤修したと伝えられ、これを契機に三尺坊の御利益は、広く世に知られることとなるのです。

娑羅観音

祈祷殿脇に黄金色に輝く婆羅観音さまは永代供養納骨堂上に建立されております。沙羅の華は、朝開きその夕べには花ごと落ちてしまうという誠にはかないものであります。大自然の流れからすると、私たちの一生もこの娑羅の華のように朝に生まれ夕べに死すようなものなのかも知れません。お釈迦様は、最後の説法を沙羅双樹のもとで、弟子達に行ったのち80年の生涯を終えられたのです。 私たちも、確かに大自然の流れからするとほんの一瞬だったかも知れませんが、大いなる生命の流れの中で大切な礎となったわけです。沙羅観音納骨堂は、核家族化が進み、なおかつ出生率の低下に伴う無嫡子世帯の増加等時代の要請に答えるべく建立されたものであり、子孫に代わって当山が永代にわたって御霊を供養いたしますので、安心して永眠できる納骨堂であります。

交通安全祈祷殿

祈祷殿脇に黄金色に輝く婆羅観音さまは永代供養納骨堂上に建立されております。沙羅の華は、朝開きその夕べには花ごと落ちてしまうという誠にはかないものであります。大自然の流れからすると、私たちの一生もこの娑羅の華のように朝に生まれ夕べに死すようなものなのかも知れません。お釈迦様は、最後の説法を沙羅双樹のもとで、弟子達に行ったのち80年の生涯を終えられたのです。 私たちも、確かに大自然の流れからするとほんの一瞬だったかも知れませんが、大いなる生命の流れの中で大切な礎となったわけです。沙羅観音納骨堂は、核家族化が進み、なおかつ出生率の低下に伴う無嫡子世帯の増加等時代の要請に答えるべく建立されたものであり、子孫に代わって当山が永代にわたって御霊を供養いたしますので、安心して永眠できる納骨堂であります。

圓明院境内は下記ストリートビューにて散策して下さい。 桜樹木葬~不動堂~鉄泉の滝~山門~鐘楼堂~本堂(一願聖天)~娑羅観音