私たちが、ものをみる場合に「見、観、視、診る、看」の5つ見方があるといいますが、その中で見るという字は、肉眼でものを見ること、観の文字は観音様の観で、心眼でものをみることです。したがって観察するということは、「心の眼でものをよくみる」といことです。
私たちは、日頃の生活の中でなんの気なしに「見てみる」とか「聞いてみる」とかという言葉を口にしますが、実はこの「みる」は心の眼をもってものを観ることを指しているのです。
“ 心ここにあらざれば 見れども見えず 聞けども聞こえず ”というのは、心の眼のないこと、心の耳を持たないこと言ったものです。ですから私たちは、こころの眼を開けば形のない形がみえ、心耳を澄ませば声なき声が聞こえるのです。
かつて宮本武蔵は「五輪書」のなかで、観の眼を持つことによって剣道の極意に達することができると力説しています。
芭蕉の句に
見るところ花にあらずということなし、おもうところ句にあらざるなし
大自然を心眼、心耳をもって観察した境地を歌っています。
心の眼を持つためには、苦行難行をしなければ到達できないという遠いところにあっては普通の人にはとうてい無理なことです。
しかし、この心眼を開くことは簡単ではないかも知れませんが、そんなに遠くにあるものでもないと思います。
私たちの最終目標(最終到達点)は、この世との別れであります。その臨終の間際までには、この心眼を少しでも磨いておく必要があるのではないでしょうか。
さて いつからやるの・・? 今でしょ
今日彼岸 菩提(さとり)の種を 蒔く日かな
ところで 何すんの ??