【よもやま】高僧を訪ねる–夢想国師–
2020年10月20日
眼裏有塵三界窄 心頭無事一牀寛 [夢窓国師]
「眼裏に塵あれば三界は窄く、心頭無事なれば一床寛なり」
一心に迷うのも衆生、一心に悟るものが仏です。一心に迷って「自我」に固執すれば、世の中は「苦」そのものです。因縁の道理をわきまえて自我に固執しなければ、苦しみから解放される道筋が見えてくるのです。
心に煩悩(眼裏の塵)があるから世の中は「一切皆苦」であり、心に煩悩なければ(心頭無事)寛(くつろ)ぐ
煩悩は、いうまでもなく「自己を中心に据えて思考したときに起きる数々の心の働き」のことであり、我々の「苦」の原因です。しかし、この心を「他者や社会全体を思考の中心に据えれば」、我々の心は「解放」に向かうのです。
渋柿の渋がそのまま甘みかな
渋柿の渋がなければ甘柿はできないように「迷う心」も「悟る」心も一つなのです。目の前の現実は変わることがなくても心一つで「苦」から「楽」へと変わる事ができると夢想国師は言われております。
無明(まよい)の反対は明(みょう)です。例えば、全く周りが見えない暗夜の中に不安を抱え怯えている時、一瞬に光が差し明るくなります。周りが見えると何事もなく日常の光景であった事に安心するのです。
暗闇の時と光が差した時と周りは、何も変わっていません。ただ「見えたのか」「見えなかったのか」の違いだけです。
心の「無明」と心の「明」は、何も変わらない現実をいかに捉えるか次第で全く違った世界を映し出すということです。