あの世はこの世の全て逆であると言うことは、この世の完全なものは、あの世では不完全なものなのです。死者に捧げる器は、葬儀の際には必ず割るという習慣があるのは、そんな信仰があるからです。今でもお盆に食べ物を盛る「かわらけ」(素焼きの小皿)などは使用後割る習慣があります。
この習慣は、遠く縄文土器などの副葬品などにも見られるといいます。副葬品のほとんどは完全なものではなく意図的に割られたり、頭と胴が切断されたものもあり、あの世に行って完全なものに生まれ変われという願いが込められたものだそうです。
さて、あの世とはどんな処なのだろうか?
私の母親は、93歳でこの世を去ったわけですが、亡くなる一週間位前に生きている内に最後のお別れをしたいからと寝ている床のそばに友人を呼び感謝の言葉を述べていました。その中で特に親しい人に「ありがとう。ほんとによかったよ、待ってるからね」と声をかけていたことを思い出します。「待ってるからね」といわれても早々に行くからとは答えられない困惑していた友人の顔を思い出します。
母の思い浮かべるあの世とは、この世とは真逆の世界であろうが、この世と変わらない人たちが楽しく過ごす世界であるということです。「先に行ってるからね」と今生の別れを多少は残念に想っていたかも知れませんが、また会える事を確信していました。
母は、大正9年の生まれでした。この頃の人たちは、当たり前のようにあの世は、先に亡くなった先祖の人たちとまた楽しく過ごせる世界であることを自然に思い浮かべていたのか、育った環境がそうだったか分かりませんが、安らかなこの世との別れであったことには間違いありません。
日本人は、遺体のことを「亡骸」(なきがら)といいます。これは「抜け殻」を意味し、「魂」の抜けた器なのです。
魂があの世に旅たつまさにその時どんな心持ちで迎えるのでしょうか。安らかでありたいと誰しも思うことです。
安らかである心持ちは、どこから生まれるのでしょうか?
このことを真剣に考える時間を持ちたいものです。